前田利保

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前田利保(富山城)
【 概 略 】−前田利保は寛政13年(1800)に富山藩8代藩主前田利謙と美須との子供として生まれました。享和元年(1801)に利謙が死去すると、まだ乳児だった事から大聖寺藩(石川県加賀市)5代藩主前田利道の8男である前田利幹を末期養子として迎え9代藩主としています。文化8年(1811)に利謙は利幹の養子となり、天保6年(1835)に利幹の隠居に伴い富山前田家の家督を継ぎ、富山藩10代藩主に就任しています。天保7年(1836)に発生した大凶作により大きく疲弊しましたが、それに加え天保9年(1838)、天保10年(1839)と幕府から供出金を求められた為、それを負担した家臣、領民は苦境に陥りました。幕府は代替処置として天保12年(1841)の参勤交代を免除しましたが、根本解決には至りませんでした。

前田利保は産業開発に活路を求め、産物方を設置し陶器製造業、薬草栽培などを奨励、特に薬草栽培は自ら岩崎灌園や宇田川榕庵から学び「本草通串」「本草徴解」「本草通串澄図」「万香園裡花壇綱目」など本草学の書籍を数多く著しています。嘉永6年(1853)に金剛堂山に登拝した際には二ツ屋街道を利用し庵谷村で宿泊したとされます。弘化3年(1846)に隠居した後も実権を握り続け、嘉永2年(1849)には居城である富山城の城外北東部に千歳御殿を造営し内部には御涼所や茶室、薬草園が設けられています。

この頃から富山城に常に在城した前田利保を取り巻く派閥と、江戸藩邸に住する前田利友を擁する江戸在住の派閥が対立するようになります。江戸派は藩主を擁していた為、優勢でしたが利保は加賀藩12代藩主前田斉泰の協力を得て、12代藩主利聲と生母である毎木は排斥、家臣である富田兵部は切腹し利保が復権しています。しかし、結果的に加賀藩の指導を受ける事になり斉泰の子供である利同を養子として迎える事になりました。安政6年(1859)死去、戒名:竜沢院殿雲巌良瑞大居士、富山前田家の墓域である長岡御廟に墓碑が建立されています。

前田利保は正源寺の厄除観音に常願寺川の氾濫防止を祈願し、藤原守胤に命じて描かせた本堂天井絵(招福鳴竜:富山市指定文化財)を寄進しています。熊野神社(富山市宮保)を篤く崇敬し社領10石を安堵、寛政10年(1798)には社殿を改築しています。於保多神社(富山県富山市於保多町)には前田利次前田正甫と共に前田利保の御霊が勧請合祀されています。

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