佐々成政剃髪跡(富山市)概要: 案内板によると「 天正13年(1585年)富山城主佐々成政が、豊臣秀吉の先鋒前田利家の軍に敗れた。その時、成政がこの地で髪を剃り僧衣を着けて服従の意思を示したとされる。当地の字名を道心山(仏道を信仰する)といっているのは、それに由来するらしい。その後、成政は肥後(熊本県)に国替えされ、天正16年(1588年)秀吉の逆鱗に触れ、攝津(兵庫県)尼ヶ崎の法園寺で切腹を命じられた。 " 何事もかわりはてたる 世の中に 知らでや 雪の白く降るらん 成政 " 富山市」とあります。
佐々成政は織田家の家臣だったものの、実質的には北陸地方の司令長官だった柴田勝家の与力大名だった為、勝家を補佐する立場でした。その為、勝家の北陸侵攻に大きな役割を果たし、天正9年(1581)には越中国の約半分が与えられ、さらに、翌年には神保長住の失脚に伴い越中国全域が成政の支配下に入りました。しかし、天正10年(1582)の本能寺の変により織田信長が自刃すると、後継者争いが顕著となり、特に羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化し、与力大名だった成政は当然勝家方として行動しました。
しかし、同じく勝家の与力で大恩を受けていたはずの前田利家が、賤ヶ岳の戦いの最中に突然秀吉方に寝返った為、大きな痛手となりそれが遠因となり柴田家は滅亡、さらに前田軍が越中国まで侵攻すると、成政は背後に上杉景勝軍が控えていた事もあり、剃髪して降伏しています。
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