前田利次:概要

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概要・歴史・観光・見所
前田利次(光厳寺)

【 概 要 】−前田利次は元和3年(1617)、加賀藩2代藩主前田利常と珠姫の次男として生まれました。珠姫は徳川秀忠の次女である事から徳川家康の曾孫にあたります。元和7年(1621)から江戸に出府し以来、幼少期は江戸加賀藩邸で過し、寛永16年(1639)に利常から加賀藩領から越中国婦負郡、新川郡と加賀国能美郡の1部10万石を分知され富山藩を立藩します。ひとまず富山城は入りましたが、当時の富山城の城域は加賀藩領内で、当然富山城も加賀藩の管理下にあった為、利次は形式上は借り受けるという形を取りました。

そこで、富山藩領内にあり交通の要衝で軍事的拠点と成り得る婦負郡百塚に新城を築城を計画しましたが、財政難などを理由に断念し、万治3年(1660)に加賀藩と領地交換を行って富山城周辺を藩領とする事で問題を解決しました(百塚への築城は念願だったらしく幕府からも許可を得て百塚侍従とも呼ばれました)。業績としては寛永18年(1641)に神通川舟運の発展の為舟橋両岸の整備を行い、正保元年(1644)には藩の法律である小松御条目の制定、承応3年(1654)には牛ヶ首用水を整備する事で奥田新村、杉原野村の新田開発、万治2年(1659)には十村制を制定する事で農村管理の円滑化を図り、その後も新田開発や富山城の拡張整備、城下町の建設など尽力しました。

又、前田利次は文武に優れ京都の北野から能観・能順・能悦父子等を招いて連歌を催しや連歌百韻を奉納する一方で楠流や北条流などの兵法を学んでいます。延宝2年(1674)死去、享年58歳、戒名「竜光院殿瑞巌良祥大居士」、遺骸は念願だった百塚城築城予定地(現在の長岡御廟)に葬られました。前田利次は曹洞宗を信仰していた事もあり加賀藩初代藩主前田利長と縁のある光厳寺が菩提寺となり、長岡御廟には墓守として光厳寺の末寺真国寺を創建し墓碑の管理が行われました。光厳寺(富山市)は歴代富山藩主前田家の菩提寺として庇護され壮麗な堂宇が軒を連ねていましたが太平洋戦争の際、富山大空襲に被災し、その後の都市計画にて境内が縮小されています。於保多神社(富山県富山市於保多町)には前田利次と前田正甫と共に前田利保の御霊が勧請合祀されています。

光厳寺:写真
前田利次と縁がある光厳寺 前田利次と縁がある光厳寺 前田利次と縁がある光厳寺 前田利次と縁がある光厳寺
富山城:写真
前田利次と縁がある富山城 前田利次と縁がある富山城 前田利次と縁がある富山城 前田利次と縁がある富山城
長岡御廟:写真
前田利次と縁がある長岡御廟 前田利次と縁がある長岡御廟 前田利次と縁がある長岡御廟 前田利次と縁がある長岡御廟
於保多神社:写真
前田利次と縁がある於保多神社 前田利次と縁がある於保多神社 前田利次と縁がある於保多神社 前田利次と縁がある於保多神社



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