【 岩瀬湊 】−岩瀬湊は神通川が日本海に注ぐ河口部に位置し、当初は神通川の西側にあり日本有数の良港として室町時代には「三津七湊」に数えられました。江戸時代当初は富山藩に属し富山城の外港として機能していましたが、万治3年(1660)の神通川の氾濫により河口の位置が大きく変わり、加賀藩に属する東側に湊町を再建しました。東岩瀬湊には北国街道(北陸道)を引き込んだ為、宿場町の機能も備え、上流域の年貢米や特産物を集積し北前舟により上方に運ばれていきました。経済的にも大きく発展し、廻船問屋が軒を連ね、加賀藩主前田家が参勤交代時に利用する御旅所や、複数棟の藩蔵が設けられました。江戸時代後期になると多種多様な職業や商売する人々が集まり活況を呈し加賀河東七浦の一つに数えられました。現在でも森家など大型町屋建築が点在し当時の町並みが残されています。
【 旧森家住宅 】−旧森家住宅は富山県富山市東岩瀬町大町通りに位置する町屋建築で、明治6年(1873)の大火で焼失し明治11年(1878)に再建されました。森家は、肥料問屋を生業とした商家で屋号「四十物屋」を掲げ「仙右衛門」を名乗り、江戸時代後期以降は廻船問屋となり大きく繁栄しました。敷地は正面が北国街道、背後が湊に接していた為、舟から荷揚げした荷物が容易に屋敷内に引き込めるような構成になっていました。茶室の壁面は弁柄色で彩るなど意匠的にも優れ当時の廻船問屋の生活を現在に伝えています。国指定重要文化財。
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