【 概 要 】−土肥家は桓武平良文(桓武天皇4世・平高望の5男)の後裔が相模国土肥郷を与えられ、地名に因み土肥氏を称したのが始まりとされます。伝承によると建長年間(1249〜1255年)、その一族である土肥頼平が越中国内の地頭職に任命された事が越中土肥家の祖になった伝えられています。鎌倉幕府が滅亡後も当地に土着し国人領主として発展し南北朝時代には越中国新川郡西部を中心として勢力を広げ多くの城砦を築いています。
室町時代には越中国守護職を担った畠山氏に従い地位を確立し最盛期には7万石から10万石を領していたと推定されています。戦国時代に入ると同じく越中国の国人領主神保氏や椎名氏と争いましたが、越後の上杉謙信が台頭すると従いました。天正6年(1578)に謙信が死去すると、跡継ぎ争いである「御館の乱」では謙信の甥である上杉景勝に与しましたが、上杉家の勢力は著しく後退した為、織田信長の越中侵攻を許しています。特に先鋒だった佐々成政との戦いは激戦となり戦線を維持出来ず越後に落ち延びています。
天正10年(1582)に本能寺の変で信長が倒れると上杉家の力を借り越中に侵攻し佐々軍と対し、天正12年(1584)には越中深くまで侵攻し佐々方の境城を占拠しました。しかし、同じく越中に侵攻していた羽柴秀吉に成政が降伏した為、越中は羽柴領となり土肥家の旧領復帰は達成出来ず大名家としての土肥家は没落しています。立山寺(上市町)は土肥家の菩提寺とされます。
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