前田利秀:概要

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概要・歴史・観光・見所
前田利秀(本行寺)

【 概 要 】−前田利秀は永禄11年(1568)、前田利春の6男で前田利家の実弟である前田秀継の次男として生まれました。幼少の頃より父親と共に利家に従い石動山の戦いや末森城の戦い、龍ヶ峰城攻防戦、蓮沼城攻防戦、今石動合戦などに参加し功を挙げています。天正13年(1585)、秀継が木舟城(富山県高岡市福岡町木舟)4万石が与えられると、利秀は今石動城(富山県小矢部市)の城代となりますが、同年、天正大地震が発生、木舟城は倒壊し秀継がその下敷きになって圧死する事態が起こりました。前田利秀はすぐさま家督を継ぎ木舟城と城下町の再建に取り掛かりますが、余りにも被害が大き過ぎた為、再建を諦め、今石動城に居城移し城の改修し城下町の建設を尽力しました。

前田利秀は両親の遺骸を菩提寺である高徳寺に埋葬すると(今石動城下に移った際、秀継の戒名「瑞光院殿密庵永傳大居士」から真光山永傳寺に改称)、縁のある寺院や木舟城城下にあった寺院を今石動城下に移し庇護すると共に、商工業者も集め今石動を当地方の軍事、行政、経済の中心として発展させました。利秀の余りにもの天晴れぷりに喜んだ住民が獅子舞を舞って歓迎したことが現在今石動に伝わる「獅子舞大競演会」の由来になったとされます。

天正18年(1590)の小田原の役では叔父である利家が率いる前田軍に従軍し、特に北条家の重臣大道寺政繁が守る松井田城(群馬県安中市松井田)攻めや八王子城(東京都八王子市)攻めなどで大功を挙げています。文禄元年(1592)の朝鮮出兵に参加し肥前名護屋城へ向いますが途中で病に罹り今石動城に戻り文禄2年(1593)死去、享年26歳、戒名「良将院光等正恵居士」。遺骸は菩提寺である本行寺(小矢部市)に葬られています。本行寺境内に建立されている前田利秀の墓は小矢部市指定史跡に指定されています。寺宝である絹本着色前田利秀画像(利秀19歳の肖像画、江戸時代初期、大坂の絵師作、縦76cm、横 37.1cm、5世本行寺住職日受の墨書有)は小矢部市指定文化財に指定されています。

本行寺:写真
本行寺 本行寺 本行寺 本行寺
今石動城:写真
今石動城 今石動城 今石動城 今石動城
木舟城:写真
木舟城跡 木舟城跡 木舟城跡 木舟城跡



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