鵜坂神社(富山市)概要: 鵜坂神社は富山県富山市婦中町鵜坂に鎮座している神社です。鵜坂神社の創建は崇神天皇の御代に大彦命(北陸道将軍)によって勧請されたのが始まりと伝えられています。
白雉2年(651)に社殿が再建され(白雉2年に創建したという説もあります)、称徳天皇(第48代天皇・在位:天平宝字8年:764年〜神護景雲4年:770年)の御代には勅願により名僧として知られた行基菩薩が七堂伽藍二十四坊を建立し越中の総社として多くの神事が行われたそうです。
平安時代に成立した歴史書である「続日本後紀」によると承和12年(845)9月従五位上、「三代実録」によると貞観2年(860)5月従四位下、「三代実録」によると貞観4年(862)10月従四位上、「三代実録」によると貞親9年(867)2月従三位に列し、中央にも知られた存在で延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳にも式内社として記載されていました。
奈良時代に越中守として赴任した大伴家持も当社に参拝したと思われ、万葉集巻十七、四〇二二には家持の和歌「鵜坂河 渡る瀬多み この吾が馬の 足掻きの水に 衣ぬれにけり」が収録されています。
歴史が感じられる鵜坂神社の拝殿
古くから神仏混合し別当寺には鵜坂寺があたり広く影響力を持ったものの、平安時代末期の木曽義仲の兵火により焼失し一時衰退、しかし、鎌倉時代に入ると源頼朝が庇護し社殿の再建や社領の寄進が行われています。戦国時代の天正4年(1576)、上杉謙信(関東管領、越後守護職、春日山城の城主)による越中侵攻の兵火にあい境内が再び荒廃し神通川の水害なども重なり当時の隆盛からは大きく衰退します。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され神社として独立し、明治6年(1873)に県社に列し、明治40年(1907)に神饌幣帛料供進神社に指定されています。
現在も鵜坂神社の内には五輪塔や石碑があるなど当時の名残も見られ、本殿で祭られている僧形神像と男神像は貴重な事から昭和61年(1986)に富山市指定文化財に指定されています。
平安時代から江戸時代まで伝えられていた尻打祭は貞操を戒めるために女性の尻を打つという奇祭で「日本五大奇祭」の一つとして日本全国にその名が知られ松尾芭蕉や宝井其角はこの奇祭について記しています。この奇祭の由来から鵜坂神社は特に「安産」と「縁結び」に御利益があるとして現在も信仰されています。
祭神:淤母陀琉神、訶志古泥神。配祀:鵜坂姉比盗_、鵜坂妻比盗_、大彦命。合祀:天照皇大神、豊受大神、誉田別大神、豊玉姫命、倉稻魂神、建御名方命、水波売神、天児屋根命。
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