小矢部市: 前田秀継の墓(高徳寺跡)

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概要・歴史・観光・見所
前田秀継の墓(高徳寺跡)概要: 真光山永伝寺の創建は永禄元年(1558)に文藝という前田秀継の墓僧侶が草庵を設けたのが始まりとされ、当初は砺波郡矢波村(現小矢部市宮島)にあり高徳寺と称していました。天正13年(1585)の天正大地震により木舟城高岡市福岡町)が倒壊し当時の城主前田秀継(前田利春の6男、前田利家の弟)夫妻は建物に押し潰され圧死し、跡を継いだ前田利秀によって菩提寺である高徳寺に埋葬され墓碑が建立されました(現在は供養塔も合わせて3基の五輪塔)。利秀は余りの被害の大きさから木舟城の再建を断念し、天正14年(1586)に居城を今石動城に移した際、その城下(現在の小矢部市八和町)に高徳寺も移されました。その際、秀継の戒名「瑞光院殿密庵永傳大居士」に因み真光山永傳寺(永伝寺)に寺号を改称しています。その後も前田家縁の寺院として庇護され文禄2年(1593)には前田利長(加賀藩初代藩主、前田利家の嫡男)が米100俵を寄進しています。又、高徳寺の旧境内には秀継夫妻の墓はそのまま残され(昭和15年:1940年まで本堂と庫裏が残されていましたが老朽化の為に破却された)、現在は「前田秀継公記念公園」として整備され昭和40年(1965)に小矢部市指定史跡に指定されています。宗派:曹洞宗。本尊:木造釈迦如来像。

【 前田秀継:概要 】-前田秀継は前田利春の6男として生まれ前田利家(利春の4男)の弟にあたる人物です。利家の2人の兄は年少である利家が家督を継いだ為、当初は不服だしたが、その点秀継は年下だった事から関係は良好でした。天正3年(1576)に利家が府中城になると秀継には1千石が与えられ、天正9年(1581)に利家が能登国1国23万石が与えられ七尾城主になると随行しています。天正10年(1582)、織田信長が死去すると跡継ぎ争いが激化、賤ヶ岳の戦い以後、利家は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従った為越中国の佐々成政と対立、その為特に越中国の国境付近が重要視されました。

天正11年(1583)、秀継は国境が接する津幡城主7千石に抜擢され対成政の最前線として臨戦態勢を強いられ、天正12年(1584)の末森城の戦いでは津幡城が前田軍の重要拠点の1つにもなっています。同年、子の前田利秀と共に佐々平左衛門が守る越中国の国境倶利伽羅峠にある龍ヶ峰城を攻略、天正13年(1585)には前田家によって越中側の重要拠点である今石動城(小矢部市)が築かれその城主となり佐々軍を撃退しています。

さらに秀吉の越中侵攻により成政が降伏すると、利家には越中三郡が新たに与えられ秀継は木舟城(佐々平左衛門の居城)4万石の城主となりまが同年、天正大地震が発生し木舟城が倒壊、秀継は奥方と共に城に押しつぶされ圧死しています。城は約9メートル(記録では3丈:1丈=3.03m)沈下(液状化現象と思われる)し遺体の発見には3日を要したとされ、跡を継いだ利秀は再建を諦める程に壊滅的な被害を受けました。秀継は曹洞宗に帰依していた事から亡骸は領内にあった同じ曹洞宗の高徳寺に葬られ、利秀が居城を今石動城に移すとその城下に移されています。その際、秀継の戒名「瑞光院殿密庵永傳大居士」に因み真光山永傳寺に寺号を改称しています。

前田秀継の墓:写真

前田秀継の墓
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