倶利伽羅不動寺(津幡町)概要: 倶利伽羅不動寺の創建は養老2年(718)、元正天皇の勅願で来日していた善無畏三蔵法師(インドの高僧)が巡錫で当地を訪れた際、霊地と悟り、倶利迦羅不動明王を模した尊像を自ら彫り込み安置したのが始まりとされ、何時しか当地も倶利伽羅峠と呼ばれるようになりました。弘仁3年(812)に弘法大師空海が当地を訪れると尊像の霊力を強く感じ、尊像を模した前仏像を彫り込み別当寺院として長楽寺を開いています。その後、鎮守社である手向神社と神仏習合、寺運も隆盛し大きな影響力を持つようになりました。
寿永2年(1183)、木曽義仲と平家による倶利伽羅峠の戦いの兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失しましたが、その後源頼朝によって再興され堂宇の再建や寺領の寄進が行われ将軍家歴代の祈願所としています。戦国時代に入ると倶利伽羅峠には一向宗の砦が築かれ、天正4年(1576)には一揆軍を掃討する為に上杉謙信が侵攻、さらに天正12年(1584)には前田利家と佐々成政との戦場となりそれらの兵火により衰退し廃寺同然となりました。
江戸時代に入ると加賀藩初代藩主前田利長が(前田家2代)帰依し秀雅上人を招き再興、前田家歴代の祈願所とする共に参勤交代の際には休息所としても利用しています。慶長19年(1614)は2代藩主前田利常(前田家3代)が利長の病気平癒の祈願を行い不動堂を寄進し、寛永年間(1624〜1644年)に本格的な再興が行われています。江戸時代末期の天保7年(1836)の火災により堂宇が焼失し再建されないまま明治維新を向かえ神仏分離令が発令されと長楽寺は廃寺となり素戔嗚社となりました。
昭和24年(1949)に金山穆韶大僧正が復興し石川県の元忠魂堂を移築して新たに不動寺を開山し素戔嗚社を手向神社に改めました。又、倶利伽羅不動尊は古くから成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び日本三不動尊に数えられ全国の中でも不動霊場として名が知られています。宗派:真言宗高野山派。
倶利伽羅不動寺の文化財
・ 長楽寺跡-津幡町指定史跡
・ 羅漢像-15世紀後半(明時代)-長さ1.3m,幅0.67m-津幡町指定文化財
・ 十一面観音像-鎌倉時代初期-長さ1.42m,幅0.41m-津幡町指定文化財
・ 頼朝下文(古文書)-建久7年-津幡町指定文化財
倶利伽羅不動寺:上空画像
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