為盛塚(倶利伽羅峠)概要: 為盛塚は倶利伽羅峠(越中国と加賀国の国境、北国街道沿いにある峠)に位置しています。 平為盛は大納言平頼盛の次男として生まれ、武勇に優れ安元元年(1175)に紀伊守、養和元年(1181)に加賀守に任ぜられ寿永元年(1182)には諸国の源氏追討の南海道方面大将にも任ぜられています。治承4年(1180)、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が平家追討令(以仁王の令旨)を発令しそれに呼応した木曽義仲は信濃国で挙兵し北陸道を西上、平家軍も義仲追討の為、北陸地方に展開し倶利伽羅峠を挟み両軍対峙しました。為盛は寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで平家の総帥平維盛の武将の1人として布陣しましたが、5月11日、木曽義仲の率いる源氏軍の夜襲(源平盛衰記によると牛の角に松明を掲げ敵中に突進させた「火牛の計」により平家軍が総崩れになったとされます)により大敗、平家軍が四散する中、為盛隊と平知度隊だけは踏みとどまりました。為盛は翌12日未明手兵50騎をひきいて源氏に奇襲をかけ大きな損害を与えましたが、多勢に無勢、徐々に家臣が討死にし遂に義仲四天王の一人樋口兼光に討ち取られたとされます。この五輪塔(地、水、火、風、空を現す塔、高さ1.6m)は鎌倉時代に為盛を弔う為に建立されたもので昭和44年(1969)に小矢部市指定史跡に指定されています。ただし、延慶本の「平家物語」や「愚管抄」によると為盛は倶利伽羅峠の戦い後、京都に落ち延び生存したとされ平家滅亡後の元暦元年(1185)には従四位上に列し、建保6年(1218)の源実朝(3代将軍)の左近衛大将任官の際にも名を連ねています。
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