【 旧宮崎酒造 】−旧宮崎酒造は富山県滑川市瀬羽町に位置する町屋建築で、慶応2年(1866)の養照寺大火で類焼した直後に再建された建物です。明治8年(1875)に宮崎家の所有になると酒造業に相応しいように「ミセ」や「オイ」の部分が改変されています。旧宮崎酒造主屋は木造平屋建て、切妻、桟瓦葺き、平入、桁行14m、建築面積376u。旧宮崎酒造衣装蔵は土造3階建て、切妻、桟瓦葺き、桁行9.6m、梁間5.9m、建築面積49u。旧宮崎酒造麹蔵は土造2階建て、切妻、桟瓦葺き、桁行8.2m、梁間5.4m、建築面積40u。旧宮崎酒造酒蔵は土造2階建て、切妻、桟瓦葺き、建築面積277u。主屋は「造形の規範となっているもの」、衣装蔵と麹蔵、酒蔵は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成22年(2010)に国登録有形文化財に登録されています。現在はカフェとして再利用されているようです。
【 滑川宿 】−滑川は中世には既に成立していたようですが、街道沿いの寒村に過ぎなかったようです。戦国時代の永正年間(1504〜1521年)頃に滑川大町が本格的に整備され、その後、狭町(現瀬羽町)が拡張されました。江戸時代に入ると加賀藩領に属し、北陸道の整備に伴い宿場町(滑川宿)に指定され藩主が参勤交代で宿泊や休息で利用する御旅所(後の本陣)や問屋が設置され、町も発展に伴い荒町(新町)、中町、神明町が随時町割りされていきました。交通の要衝でもあった事から物資の集積場にもなり、上流域の年貢米や特産物が集められ多くの豪商を輩出するようになり、江戸時代中期以降は売薬の一大拠点となりました。現在でも北陸道の街道沿いには伝統的な町屋建築が点在し、良好な町並みを見る事が出来ます。
【 北陸道 】−北国街道と北陸道の定義については諸説あるようですが、当サイトでは、北国街道を中山道追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町追分)から直江津湊(新潟県上越市直江津:厳密には直江津湊手前の分岐点)と中山道鳥居本宿(滋賀県彦根市鳥居本町)から今庄宿(福井県南条郡南越前町今庄)まで、一方、北陸道を直江津湊(厳密には直江津湊手前の分岐点)から今庄宿までとします。よって滑川宿は北陸道の宿場町と定義します。
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