・小杉は古くから交通の要衝で物資の集積地として市も開かれていました。
さらに、寛永16年に富山藩が立藩すると富山城の城下に北国街道が入り込むのを嫌った為、明暦4年から高岡から大門、小杉、下村を経て東岩瀬に至る経路に変更になりました。
明暦から万治年間にかけて街道上の戸破村と小杉三ヶ村の一部が割かれ新たな町割りが行われ、周辺の村々から二男、三男等が集められました。
小杉新町が成立すると、寛文2年に宿場町に指定され、寛文7年には加賀藩の本陣に寺林長左衛門家が命じられています。
寺林長左衛門家の祖である金森斎宮は戦国武将の金森長近の一族で、その後、寺崎入道泰山民部に仕えたものの上杉謙信との戦いに敗れ自刃しています。
嫡男だった新右衛門仍久は帰農し「寺林」姓に改姓、江戸時代に入ると前田家から横目付や十村役等の要職を命じられています。
3代目瀬兵衛は射水群奉行に小杉新町の設立を申請し、二男長左衛門が前田家本陣、4代小右衛門の長子八三郎が脇本陣を担いました。
寛文5年には砺波射水郡奉行所が設置され、敷地内には奉行所の他、東貸屋、西貸屋、足軽長屋、牢屋等が設けられ、奉行2名、足軽20〜30人が勤務していました。
下条川舟運の拠点にもなった事から物資の集積地にもなり延宝2年には市の開催も認められ、2と5と8の付く日が開かれる九歳市も許可されています。
寛文3年には加賀藩の困窮する農民に対して「作食米」を貸付る為の米が収納される作食蔵が設けられたものの凶作で貸付米の返済が滞り、機能しなくなった事から享和3年に廃止となっています。
小杉は左官業の盛んな町でもあり、寛正2年には左官職人の技術検定や格付けが行われ、天保4年には「左官講」が結成されています。
特に竹内家は文政年間から続く左官業を営む家柄で、「竹内組」では多くの左官職人を抱え、明治時代に活躍した6代目の竹内源造は左官技術を芸術まで高めた鏝絵や漆喰工作物の名工として広く知られました。
現在、街道沿いには伝統的な大型町屋建築は失われつつありますが、明治から昭和初期にかけての擬洋風建築や看板建築が複数残され落ち着いた町並みが形成されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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