・水橋の地は古から交通の要衝で、古代の官道である北陸道の駅家である水橋駅が設置され馬五疋が置かれた事が延喜式で定められています。
白岩川を渡河する「水橋の渡り」があり、平安時代に清少納言によって編纂された枕草子にも、清少納言が人伝に聞いた「みずはしの渡り」という名称が奇異に感じ、珍しい渡し名があるとして記しています。
又、伝承によると、文治年間に源義経が兄である源頼朝の命令を聞かなかった事から追討を受け、奥州平泉に向かう為に水橋の渡しに差し掛かった際、海神の化身である海士が出現し、無事に渡り切る事が出来たと伝えられています。
中世に入ると一向宗の水橋門徒の拠点として知られるようになります。京都出身で平安時代末期に生まれた願海房信性は親鸞の弟子となり、親鸞から越中国での浄土真宗布教を命じられ、水橋門徒の中心的な存在となり、本願寺に本尊軸を持参した尼浄円も水橋門徒出身とされます。
戦国時代には戦略的な要衝として機能したようで、文献や武将の手紙等にも度々「水橋」の地名が散見されてます。
隣接する水橋湊は良港として知られ江戸時代に入ると加賀藩の河北七浦に指定され、常願川と白岩川上流の年貢米等が当地に集積されました。
寛文2年に西水橋に給人蔵が、寛文8年には東水橋に水橋御蔵が設けられ、給人蔵には西水橋の有力者だった池田屋と辻が堂屋、勝島屋、浜屋が管理しています。
廻船業を生業とする商家も多く、安政5年に記録によると61艘の廻船を有しており、水橋湊を利用する船数は慶応3年には465艘に上がっています。
又、北国街道の宿場町でもあり、東水橋の本陣は中野屋治右衛門家、西水橋の本陣は吉兵衛家が担いました。
江戸時代中期以降は大きく発展し、家屋は宝永7年に448軒、嘉永4年には1079軒、安政5年には1211軒に増加し、東水橋が11町、西水橋は9町で構成されるようになっています。
現在も良好な町屋建築が点在し落ち着いた町並みが残されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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