三日市宿

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三日市宿:略データ
・場 所・富山県黒部市三日市
・概 要・三日市宿は寛永16年に北国街道の宿場町に指定され、改めて町割りが行われ宿場町として整備されました。

万治3年に下街道が開削され、新たに浦山宿と舟見宿が開削されると、三日市宿が、上街道と下街道の分岐点となった事から重要視されました。

三日市宿には北国街道を参勤交代で経路とした加賀藩主前田家と富山藩主前田出雲守家、大聖寺藩主前田備後守家が利用した為、それぞれの御旅屋が設けられています。

御旅屋は加賀藩主が江戸時代初期が善右衛門家、享保20年以降が仁右衛門家、富山藩主が八左衛門家、大聖寺藩が新左衛門家が担っています。

寛正12年以降、加賀藩主前田家は仁右衛門家(嶋屋又は志摩屋)を利用するようになり、文化13年には12代藩主前田斉広、天保5年には13代藩主前田斉泰が休息所とする等しています。

又、三日市は周辺地域の物資の集積地として経済的な中心地となり三・八の日を市日とする定期市が開催されました。

親鸞聖人所縁の地でもあり、承元元年に親鸞聖人が越後国に流された際、三日市の辻源左衛門時方に宿泊、その晩経田屋太兵衛が親鸞に串柿を献上、親鸞が柿を食した後、その種を3粒炉の火で焙ってから庭先に撒いたところ不思議と一夜にして芽吹いた事から三本柿と呼ばれるようになり信仰の対象になったと伝えられています。

その後、経田屋太兵衛が親鸞の弟子となり祐円の法号と十字の名号を授かると当地に道場を開いています。祐円が開いた道場を基礎として辻徳法寺が開創され、現在も街道沿いに境内を構えています。

三日市は古くから交通の要衝だったようで、天正10年に上杉方の魚津城が佐々方に攻められた際、救援の為上杉景勝が天神山城に向かう途中、当地の麻地屋新左衛門家に宿泊し、庭園にあった桜の古木を褒め称えと伝えられ、何時しかその桜を「景勝桜」と呼ばれるようになったそうです。

現在は近代化によって風情ある町並みは失われつつあります。

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