三日市宿

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浦山宿:略データ
・場 所・富山県黒部市浦山
・概 要・江戸時代当初の北国街道の経路は三日市から沓掛→上野→入善→横山→泊の経路のみでしたが、この経路上は川や沢が多く、黒部四十八ヵ瀬と呼ばれる程で、特に雪解けの増水時には通行が度々疎外され大変な難所だった事から、加賀藩5代藩主前田綱紀の命により遠回りにはなるものの、渡河が少ない黒部川上流に新たな経路となる上街道が開削されました。

それに伴い寛文2年に愛本刎橋が架けられ、翌、寛文3年に浦山宿が開宿、駅場18疋が定められています。

宿場の規模は御旅屋、本陣を中心に497間程の長さがあり、街道の中心には水路が設けられていました。

浦山宿の開宿に関しては松儀家が、大きく関わったと見られ、これに先立つ寛永7年には3代藩主前田利常が鵜野に「御亭」を造営し、それを松儀家が管理するよう命じられ、その鵜野に浦山宿が整備された事になります。

松儀家の祖である松木兵庫は新川郡内を領する郷士で浦山村に居城を構えていたようですが、江戸時代は帰農し3代目伝右衛門の代から「松儀」姓を掲げたとされます。

寛文6年には「御亭」に御座敷と御台所等が増築され「御旅屋」と呼ばれるようになり3代目松儀三右衛門が御旅屋守に就任、それ以降、歴代松儀家が明治維新まで御旅屋守を歴任しています。

4代三右衛門は慶安元年〜万治2年に十村役を務め、4代、6代、7代、11代は山廻役、8代は奥山廻役を担い大きな権限があった事が窺えます。

基本的に御旅屋は加賀藩主前田家が参勤交代で浦山宿を経路にした際に休息所として利用され、家臣を含めると2千人から4千人が各家々に分宿しています。

一方、富山藩主前田家と、大聖寺藩主前田家は御旅屋松儀家では無く、記録は無いものの本陣職を担った福島家を利用したと推定され、江戸時代後期には本陣職を引き継いだ河村屋甚右衛門家を利用した記録が残されています。

宿場の一角に鎮座している鵜野神社のエドヒガン桜の大木は「月訪の桜」の別称があり、伝承によると、越中国守の大伴家持が当地を訪れた際に植樹したち伝えられています。

現在に「月訪の桜」は主幹が昭和7年の京風により東海し、そのひこばえですが貴重な事から黒部市指定天然記念物に指定されています。

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