・大門の地は古くは古代の官道である北陸路の経路上にあったとされます。
しかし、別経路の北陸往還が開削されると便の良かった北陸往還を利用する事が多くなり、この区間の北陸道は衰微しました。
当初は三島野と呼ばれていましたが、水戸田山中の熊野社への参詣道としての役割が残されており、「熊野の大門先き」と呼ばれていた事から「大門」と呼ばれるようになったと伝われています。
江戸時代に入り北国街道が開削されると上記の北陸往還の経路をベースに整備されましたが、慶長14年に加賀藩初代藩主だった前田利長の隠居城となる高岡城が築城されると、その城下に北陸街道が引き込まれる計画が立てられた為、旧北陸道経路がベースとなる新たな街道が開削されました。
大門の地は再び街道が通る事となり、さらに庄川を控えていた事もあり渡河地として重要視されました。
承応元年に庄川の大洪水により大きな被害を受けると、加賀藩は「大門新町」の町立を許可した事で新たな町割りが行われ、宿場町としても整備されたと思われます。
寛文6年には大橋が架けられ、さらに、庄川舟運の拠点にもなった為、年貢米や木材等、多くの物資お集積場にもなり大いに賑わっています。
又、水戸田山中に鎮座している熊野社の参拝道である「熊野往来」や氷見往来から北国街道を繋ぐ脇街道の分岐点でもあり多くの人々が利用しました。
その後洪水により橋は流され川筋の変化に伴い俣川が生じると、加賀藩は橋の再建を行わず渡船場の許可に留めています。
嘉永元年に庄川渡河の不便を憂いた高岡の侠客である大長の尽力で橋が再建されると名前に因み「大長橋」と呼ばれました。
大門曳山まつりは明治時代初期頃から大門神社と枇杷首神社の秋の例大祭で奉納されるようになった4基の曳山は大門大橋を渡って庄川対岸に鎮座している枇杷首神社を往復し、その後は各曳山は所属する町内を曳き回します。
4基の曳山は田町、中町、西町のものが明治5年、枇杷首のものが明治時代に高岡曳山に倣って制作され、貴重な事から高岡市指定有形民俗文化財に指定され、とやまの文化財百選のとやまの祭り百選武門に選定されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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