今石動宿

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今石動宿:略データ
・場 所・富山県小矢部市今石動
・概 要・今石動は難所である倶利伽羅峠を控えた要衝とされ、奈良時代には埴生八幡宮が開創、峠を利用する人達から信仰されたようです。

平安時代末期に行われた 利伽羅峠の戦いでは、越中国を進軍した木曽義仲が埴生八幡宮を参拝しています。

地名の「今石動」の由来は白馬山の山頂に能登国二之宮である伊須流岐比古神社から分霊を勧請し開創された伊須流岐比古神社が鎮座し、本社の鎮座地が石動山だった事から、新たに城郭を築いた際、新しい「石動」との意味から「今石動」になったとも云われています。

別説では、天正10年に前田利家が伊須流岐比古神社の別当寺院である石動山天平寺と戦った際、勝利を収め、その和睦の条件の一つとして天平寺が奉斎していた伊須流岐比古神社の本地仏である木造虚空蔵菩薩像が差し出され、それを新たな城の鎮守社の愛宕神社に祀った事で、石動山の宗徒が集まった為、「今石動」と呼ばれるようになったとも云われています。

今石動城には利家の弟である前田秀継が配され、対立していた佐々成政との最前線だった事から、成政に味方した神保氏張や佐々左衛門、前野勝長等から攻められ、何とか撃退したものの城下にも大きな被害を受けています。

豊臣秀吉も越中平定の為に当地まで進軍すると今石動城に滞在、越中平定が完遂すると、秀継は木舟城の本城を遷し、当地には嫡男の前田利秀を配しています。

しかし、同年に天正大地震が発生し木舟城は大破、その下敷きになった秀継が圧死した事から、跡を継いだ利秀は木舟城の再建を諦め、今石動城を本城に定めています。

文禄2年、利秀の死去に伴い文禄3年に今石動城は廃城、江戸時代に入ると加賀藩に属し、城址の麓に群奉行や今石動町奉行所が設けられています。

今石動城が築城された際、城下町に北国街道に引き込むように町割りされていた事から、江戸時代に改めて北国街道が開削されると宿場町として整備され、御旅屋や本陣、脇本陣、旅籠、茶屋等が設置されています。

又、加賀藩の富山西部の年貢米の集積地だった事から小矢部川左岸には藩の米蔵が軒を連ね、宿場町内にも米屋40軒以上、それ以外にも呉服店や古道具屋、鍛冶屋等があり大いに栄えたとされます。

宿場の規模は南上野町から川原町まで13町32間あり、元禄3年の記録によると家数1162軒、人口5064人と記されています。

現在も西福町には伝統的な町屋建築が複数残されており、懐かしい町並みが見る事が出来ます。

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