猪谷関所(神通峡・富山市)概要: 江戸時代に入り越中国(現在の富山県)と飛騨国(現在の岐阜県) を結ぶ飛騨街道が整備されると飛躍的に利用する人が増え、特に街道沿いに金山や銀山が開発されると産出された鉱物の搬出だけでなく、労働者の消費を賄う為、多くの物資が取引されるようになりました。寛永18年(1641)、富山藩(藩庁:富山城)は西猪谷に関所を設け人や物資の出入りを管理させ役銭の徴収や国境警備の要とし、番人には代々橋本家と吉村家が勤め、鉄砲2丁が常備され神通川方向には14間、山手方向には38間の矢来垣が築かれました。
関所内部には橋本家と吉村家の役宅が設けられ、関所の出入りには必ず役宅前を通らなければならず、関所手形や周辺住民用の焼印札などが改められました。江戸時代初期は人物改めが厳しかったとされますが、飛騨に運ぶ日本海の塩や魚などの海産物消費が多くなると荷物改めが厳しくなり通行税がかけられました。明治2年(1869)に街道制度が廃止になった為、それに伴い全国の関所も廃止となりましたが、当地では明治4年(1871)まで業務が続けられ、明治5年(1872)に廃止となっています。猪谷関所の跡地は貴重な事から昭和40年(1965)に富山県指定史跡に指定されています。
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