神通峡(富山市): 上行寺

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概要・歴史・観光・見所
上行寺(神通峡・富山市)概要: 上行寺は富山県富山市楡原に境内を構えている法華宗陣門流の寺院で、創建は室町時代の応永16年(1409)に法華院日来聖人によって開山され新川郡芦生の地に境内を構えたのが始まりとされます。天文元年(1532)に楡原集落にあった真言宗であった法雲寺の住職祐光師と、上行寺の日成師との間に教義を巡る論争があり勝利した事から法雲寺の寺号を上行寺に改め法華宗に改宗しています。法雲寺は源平合戦で源氏方の有力武将で大功を挙げた畠山重忠の菩提寺として知られ、重忠は鎌倉幕府が成立した以降は御家人として重責を担いましたが、政敵だった北条氏との確執から元久2年(1205)に畠山重忠の乱を発生させ鎮圧されています。重忠は一般的には蔵国二股川(現在の神奈川県横浜市)で北条方の軍に敗れ討死、又は自刃したとされますが、当地には源頼朝が重篤に陥った際、万病に効くと告げれ生きた犀の角を求めて神通峡まで来たいう重忠の伝説が伝わっています。重忠は何とか犀の角を獲得したものの、頼朝の病には全く効かなかった為、偽りの角を献じた逆臣と裁定され楡原の法雲寺で謹慎となり元久2年(1205)に幕府軍に追討され討死したと伝えられています(普通に考えれば畠山一族が当地に隠れ住み、重忠の供養の為に墓碑を密かに建立したと思われます。上行寺は法雲寺の寺跡を継いだ事から現在も重忠の供養を続けているそうです)。

室町時代には畠山氏の名跡を継いだ後裔の一族である能登守畠山氏の庇護となり、特に畠山義則が篤く帰依し、永禄12年(1569)には大旦那となり大きな後ろ盾となっています。最盛期には塔頭5ヶ坊を擁する大寺院でしたが、明治元年(1868)に現在地に境内を移した後、神仏分離令や廃仏毀釈運動などにより一時廃寺に追い込まれ、明治11年(1878)に再興を果たしています。

案内板によると「 応永16年(1409)法華院日来師により新川郡芦生の地に建立されましたが、4代目住職のとき楡原にあった真言宗法雲寺(源頼朝の重臣畠山重忠の菩提寺)との間の教義論争により、この寺は改宗され、天文元年(1532)楡原へ移されました。その後「楡原法華の堅法華」とよばれる熱心な法華宗徒に大切に守られてきています。上行寺寺宝の中には重忠ゆかりの三帰明王像などがあります。」とあります。山号:不怠山。宗派:法華宗陣門流。

上行寺:写真

上行寺
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