蓮沼城

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蓮沼城:略データ
・場 所・富山県小矢部市蓮沼
・築城年・永享年間
・築城者・遊佐氏、遊佐徳盛、椎名康胤、石黒氏
・城 主・遊佐氏
・構 造・平城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・蓮沼城が何時頃築城されたのかは判りませんが、永享年間に遊佐氏が築いたと推定されています。遊佐氏は出羽国飽海郡遊佐郷を本貫とする国人領主で南北朝時代に畠山氏が奥州探題になった事から従うようになり、4代将軍足利義持の治世で畠山満家が越中国守護職になった事に伴い守護代に就任したと思われます。

永享8年に高瀬荘で紛争があった事が遊佐徳盛の署名の書状が発給されている事から、当時の守護代は徳盛と考えられる為、蓮沼城は徳盛の館として整備されたものと推定されています。

文明年間の城主である遊佐長滋は著名な連歌師として知られた宗祇とは連歌仲間で、宗祇が越後に赴く際には蓮沼城を訪れ、千句の連歌を興行したとされます。

当地は倶利伽羅峠を控える交通の要衝であった事から要人達も宿所として利用していたようで、延徳3年には室町幕府の管領である細川政元に同行し越後国に下向した冷泉為広は「遊佐加賀守館」に宿泊し、隣接する船着き場から小矢部川を利用して河口に出て越後国に向かったとされます。

永正年間に城主だった遊佐新右衛門慶親は崇敬社である植生護国八幡宮に石段を寄進する等領土経営を順調に行っていたものの、越中一向一揆衆との対立から抵抗しきれず越後国に落ち延びている事から、その直後の蓮沼城は一向一揆衆の拠点として利用されたと思われます。

その後の詳細は不詳ですが、木舟城主である石黒氏の支配下に入ったようですが、永禄12年頃からは椎名康胤が居城として利用しています。椎名氏は越中国新川郡の守護代だった家柄でしたが、神保氏との抗争の中没落、椎名康胤は上杉謙信の後ろ盾を得て復権したものの、永禄11年に発生した本庄繁長の乱の最中に離反、武田信玄に転じた為、永正12年、逆に上杉勢から松倉城を攻められています。

その後、康胤は松倉城を放棄し、越中一向一揆衆と協力関係を築き蓮沼城に入ったとされます。江戸時代に加賀藩によって編纂された「越登賀三州志」によると、天正4年に上杉勢に攻められ蓮沼城は落城、康胤は討死したと記されています。

その後、上杉家に従った石黒氏が配されますが、天正6年に謙信が死去した事で越後国で大規模な内乱が発生すると、越中国は織田勢が席捲し、蓮沼城は織田家の家臣である佐々成政の支配下に入ったと思われます。天正13年に富山の役が発生すると、蓮沼城は交通の要衝だった事から佐々軍の軍事拠点として利用されていた為、羽柴秀吉に従った前田利家に攻められ落城、そのまま廃城になったと思われます。

蓮沼城は、宝暦14年に編纂された書上申帳によると東西26間、南北36間の規模で、周囲を幅5間の堀が廻り、渋江川とその支流が天然の外堀に見立てられていたと思われます。城跡は周囲より若干高いものの、目立った遺構は、宅地化や圃場整備等により失われています。

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