木舟城跡(高岡市)概要: 木舟城は富山県高岡市福岡町木舟に位置する城郭です。木舟城の築城は平安時代末期の寿永3年(1184)石黒太郎光弘が築いたのが始まりと伝えられています。石黒氏は福光城を居城にしていましたがその後複数の分家が出来その内の一派が木舟城を居城として勢力を広めたと思われます。その後、木舟石黒氏は主家を上回る勢力となり戦国時代の天正年間(1532〜1554年)には当時の城主である石黒左近将監が安楽寺の城主高橋與十郎則秋を討ち取り、永禄9年(1566)には当時の城主石黒成綱が鷹栖館や勝満寺、天正年間(1573〜1591年)には中田城や柴田屋館などに侵攻を繰り返しています。
石黒氏は天正2年(1574)に春日山城(新潟県上越市)の城主で越後国守護の上杉謙信に敗れ、臣従するとこになりますが、天正6年(1578)に謙信が死去すると上杉家内で家督争いである「御館の乱」が発生し、その混乱に乗じて離反し織田信長方に転じました。
天正9年(1581)に上杉景勝の侵攻により木舟城が落城し、木舟石黒氏は織田家を頼り落ち延びますが、織田家の裏切りにより惨殺され、さらに織田家は越中に侵攻し木船城は家臣である佐々成政の支配下となり家臣である佐々平左衛門が配されています。
天正12年(1582)、本能寺の変で信長が自刃すると羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田家を排斥しながら台頭した為、佐々成政はその正当性を疑問視し公然と異を唱え、逆に本来柴田勝家の与力として支える立場でありながら、戦局を不利とみて勝家を裏切り秀吉に与した前田利家と対立関係となり、末森城の戦いが発生します。
平左衛門も成政に従い木舟城から出陣し落城寸前まで追い込んだものの、撤退を余儀なくされ、さらに翌年発生した富山の役により佐々成政は抵抗むなしく羽柴軍に敗北し、木舟城でも前田軍に夜襲をしかけ大きな被害を与えますが結局開城したと思われます。
その後、前田利家の支配となり木船城には末弟の前田秀継が4万石で配されますが同年の大震災が起こり城主とともに城も倒壊し、再建できぬまま天正14年(1586)に廃城となっています。木舟城跡は昭和40年(1965)に富山県指定史跡に指定されています。
木舟城跡:上空画像
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