・下村の地は古代の官道である北陸道の経路だったと推定される要衝で、越中国射水郡に倉垣荘が成立すると、白河上皇の勅願により治暦2年に京都の賀茂神社から分霊が勧請され下村加茂神社が開創されています。
しかし、北国道の経路の変更により次第に衰微しました。
慶長14年に加賀藩初代藩主前田利長が隠居城として高岡城を築城すると城下と周辺地域との連携を図り、商工業を発展させる為に北国街道が引き込まれる事となりました。
さらに、寛永16年に富山藩が立藩すると富山城の城下が加賀藩の支配下から離れる事になった為、改めて富山城下を迂回する新たな経路となる高岡城下から大門、小杉、下村を経て東岩瀬に至る経路が開削されました。
寛文2年には宿駅に指定され、寛文5年には街道管理の為の道番が設置、寛文6年には駅馬が23頭を常備する事が定められています。
道番には利波新村出身の善七と伝六の2人が指名され、屋敷の他、50歩(坪)〜100歩(坪)の宅地と年間70匆の給金が与えられ、屋敷が丁度、加賀藩と富山藩の藩境でもありました。
下村は石高が3079石の大村だった事から周辺の経済、行政の中心となり、街道沿いには高札場が設置され、藩の収納御蔵も設けられています。
下村に集積された物資は葛川と林川が合流した鍛冶川を利用して放生津潟を経由して伏木港まで運ばれ、宿場内にあった200軒の内100軒が商家だったと伝えられています。
宝暦11年には下村本陣が設けられ、坂井源七郎家が指定されています。
坂井家は文化11年に変地起辺勢子坊主就、文政12年に無役寄例、文久3年に新田裁許列等の要職を歴任し、寛正2年から安政2年まで十村役を務めています。
明治時代には新川県14大区戸長や富山県会議員、下村初代村長等を歴任した坂井敬義を輩出しています。
現在は歴史ある町屋建築が失われつつありますが、落ち着いた町並みが残されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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