境宿

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境宿:略データ
・場 所・富山県朝日町境
・概 要・朝日町境村境A遺跡は縄文時代中期から晩期にかけての集落遺跡で、住居跡や墓穴跡から土器、石器類が大量に発見されています。

中でも翡翠の玉製品と蛇紋岩制の磨制石斧は、原石から完成品までの制作過程が判る遺物や加工道具類も確認され、大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

その他にも平安時代から中世にかけての製塩跡や掘立柱建物数棟の跡等も確認され長く人々の生活が営まれていた事が窺えます。

集落東部を流れる境川が越後国と越中国との国境だったとも云われ、戦略的な要地として多くの軍勢が行き交いました。

当地に築かれた宮崎城は国境を守備する城郭として度々激しい攻防戦が繰り広げられています。

当時は京都天龍寺と本光院領があり、天文12年には越中国の半国守護代の椎名長常が「境村両分」の諸公事等を20年間免除しています。

椎名家が没落すると遺臣達は周辺で海賊行為を繰り返した事から上杉謙信はそれを抑える為に武装を許可させています。

富山の役で敗北した佐々成政は新川郡のみ所領を安堵されましたが、宮崎城は上杉景勝の管理下にあり家臣が城将として配されています。

江戸時代に入ると加賀藩に属し、北国街道が開削され、一国一城令で宮崎城が廃城になると慶長19年には藩による正式な関所が整備されています。

境関所の敷地には藩主の宿泊や休息で利用される「御旅所」や関所役人の役宅である「御貸家」、塩蔵、土蔵、牢等が建てられました。

境関所には60人に及ぶ人員が配置、鉄炮70、弓30、槍70、具足60が備えられ箱根関所を上回る規模を誇りました。

境宿には関所以外も刑場や一里塚が設けられ、護国寺や境神社等が境内を構えました。

現在は伝統的な町屋建築は少なくなりましたが、宿場町らしい落ち着いた町並みが続きています。

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