・当地は古代の官道である北陸道の経路だった可能性があり、万葉集巻十六、越中国歌四首に収録されている「大野路は繁道森怪しげくとも 君し通はば道は広けむ」の大野路は、福岡町大野地内との説があります。
福岡の地名は天文4年に白山本宮等と争いになり敗北した、加賀国福岡(旧石川県石川郡内村)出身で河内庄の地頭職だった結城七郎四郎宗俊が当地に移住した際、出身地と風景や地形が似ていた事から名付けたと伝えられています。
江戸時代成立当時は大蔵町や清水町等僅かな村落が点在するような土地柄でしたが、慶長14年に加賀藩の初代藩主前田利長が隠居城として高岡城を築くと、以前は今石動宿から高岡城下を結ぶ経路に変更となり、次第に大蔵町と清水町の住民を中心に街街道沿いに集まってきました。
承応年間には町立を願い出て福岡新町が成立し宿場町としても整備されたと思われます。
正式な本陣はありませんでしたが宿場の中央付近に境内を構えていた長安寺が参勤交代の御小休所として利用されています。
当初は本堂が休息所として利用されていたものの不都合があったらしく、その後は本堂の背後に御殿が造営され、そちらが休息所となっています。
長安寺本堂の扉には加賀藩前田家の家紋である加賀梅鉢が掲げられ関係性が窺え、長安寺から数10m程離れた清水は藩主が休息した際に利用された事から、「殿様清水」と呼ばれ、明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際にも、この清水で御茶を点てたとされます。
又、福岡の地は小矢部川舟運の拠点ともなった為、加賀藩の小矢部川中尉記の年貢米の集積地にもなり、承応2年には藩の米蔵が設置されています。
さらに、加賀藩は菅笠の生産を奨励した事から、小矢部川流域の湿地帯では菅の栽培が盛んになり、天保14年の記録によると福岡町を中心に44ヶ村100町歩余が菅が栽培され一大生産地となっています。
江戸時代中期から後期になると独立した笠問屋が多く見られるようになり加賀藩が産物会所を設置した事で、さらに発展する事になりました。
文化7年の記録によると菅笠仲買14軒、菅笠仕入人11軒、慶応元年には笠買小売人が90軒と記されています。
明治時代に入ると近代交通網の整備が行われ、明治31年に国鉄北陸本線の金沢、高岡間の海中等により、交通の要衝という優位性が薄れ、小矢部川舟運も次第に衰退していきました。
現在も街道沿いには伝統的な町屋建築が多数見られ、宿場町らしい町並みを見る事が出来ます。
北国街道:宿場町・再生リスト
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