・江戸時代初期の北国街道の経路は三日市から入膳、泊と海岸線に沿っていましたが、河口付近は黒部川等の川筋が複数に分かれ、雪解け直後は増水し渡河に苦労した事から、寛文2年に上流に愛本橋を設け、さらに寛文3年に浦山と舟見に宿場を新設、新たに上街道を開削し泊で合流しました。
当初の泊宿は笹川東岸に位置していましたが、承応3年から明暦2年に笹川西岸へ遷り、さらに、享保2年に高波により破壊的被害を受けた事から、享保3年に被害を受けにくい内陸部の現在地に新たな町割りを行いました。
北国街道は加賀藩の参勤交代の経路でしたが、江戸時代初期に藩主前田家が泊宿を利用する記録が残っておらず、当初は本陣が設けられていなかった可能性があります。
江戸時代中期以降、庄助家が一時、御宿になったようで加賀藩8代藩主前田重熈が度々利用しています。
庄助家は山廻役や十村役等の上役を担いましたが、延享4年に死去すると跡を継いだ庄左衛門は舟見十村役として入膳に遷った為、新たな泊組十村役に就任した伊東加兵衛が当地に赴任、加賀藩前田家の御宿となっています。
泊宿は距離的な関係から、特に江戸から金沢に帰国する際の宿泊所となり10代藩主前田重教をはじめ、11代藩主前田治脩、12代前田斉広、13代藩主前田斉泰、14代藩主前田慶寧が伊東邸で宿泊し、明治11年の明治天皇の北陸巡幸の斉には6代伊東次郎左衛門祐明家が泊行在所に命じられています。
一方、富山藩主前田家と大聖寺藩主前田家は小沢与三左衛門家を御宿に定め、概ね参勤交代の帰国時に宿泊しています。
小沢家は前田家と同様に尾張国荒子出身で、富山藩と大聖寺藩の御宿の他、元禄10年から給人米を管理する蔵宿を代々勤め、7代と8代は山廻役、8代は十村役を担っています。
現在は建て替えが進み歴史ある町屋建築は少ないですが、常光寺や松林寺、妙輪寺、妙林寺等由緒ある寺院が境内を構え懐かしい落ち着いた町並み景観が見られます。
北国街道:宿場町・再生リスト
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