朝日町: 宮崎城

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宮崎城
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宮崎城 宮崎城 宮崎城 宮崎城
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概要・歴史・観光・見所
宮崎城跡(朝日町)概要: 宮崎城の築城は平安時代末期の寿永元年(1182)、当時周辺を支配し、木曽義仲に属した豪族である宮崎太郎長康によって八幡山(別名:城山・標高:249m)の山頂に築いたのが始まりと伝えられています。同年には後白河法皇の孫で以仁王の第一皇子である北陸宮が宮崎太郎長康を頼った為、宮崎城の城内に御所を設けて拠点としました。当時、北陸宮は追手(平家方)から逃れる為に出家していましたが、木曽義仲の後ろ盾もあり宮崎城で還俗、さらに元服させた事で義仲の正当性が確立し、正に「錦の御旗」を掲げ平家追討の理由付け大義名分となりました。義仲が平家を京都から追放すると北陸宮を天皇に即位させようと画策したものの、その努力が実らず結局安徳天皇の異母弟である四ノ宮が天皇に即位しています。宮崎城は越後国(新潟県)と越中国(富山県)の国境に近い戦略的に重要な場所だったことから、度々戦闘にも巻き込まれ承久3年(1221)に発生した「承久の乱」では戦場となり北条義時によって落城させられています。戦国時代には椎名康胤が城主となっていましたが、上杉家を離反に武田方に転じた為、粛清を理由に上杉方の猛攻を受け落城、しかし、天正10年(1582)織田信長の北陸侵攻により再び落城し、越中国に配された織田家の家臣である佐々成政の支配下に入り、本城の富山城の支城となっています。天正12年(1584)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に与した上杉景勝が越中国に侵攻し宮崎城を攻略、佐々成政が降伏後は上杉家の家臣が城将として配されています。慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後は加賀藩前田家の支配下に入り家臣が配置されましたが、一国一城令により廃城となり代わりに麓には境関所が設けられています。宮崎城は富山県最古の山城と言われ、本丸や二の丸、三の丸などの郭の形状や土塁、石垣、空掘りなどの遺構も比較的よく残っていることから昭和40年(1965)に富山県指定史跡に指定されています。城跡には北陸宮御墳墓宮崎太郎長康公供養塔が建立されています。
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