富山前田家:概要

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概要・歴史・観光・見所
富山前田家(長岡御廟)

【 概 要 】−寛永16年(1639)、前田利次(前田利常の次男)が本藩である加賀藩領から10万石を分知され富山藩を立藩します。当初は藩領が幾つかに分散され富山城(富山市)も加賀藩の所有で借り受けていましたが、万治3年(1660)に領地交換が成立し正式に富山城が藩庁となります。利次は小松御条目の制定や新田開発、富山城の整備、城下町の建設などに尽力し初期の藩政の基礎を固めました。2代前田正甫も利次の事業を引き継ぎ新田開発を行なうと共に富山藩の産業発展に尽力し製鉄業や蚕種、和紙製造、製薬業を新たな産業の柱として力を入れ、特に製薬業には並々ならぬ力の入れようで、富山薬業の祖とも称されました。2代連続で名君を輩出したものの、富山藩は加賀藩の支藩として多くの家臣が押し付けられた為、石高に対して以上な程人件費が高く、さらに地政学的に神通川の氾濫や、火災などが頻発し慢性的な財産難となり、その後の藩主も比較的良政を行い財政改革を行ったものの効果はほとんど上げる事が出来ませんでした。

6代前田利與も人別銭の徴収や上米の徴収、株仲間からの上納金の徴収、人員整理など数々の政策を執行し安永2年(1773)には人材育成の為、藩校広徳館を開校させましたが、日光東照宮(栃木県日光市)の改修や飛騨騒動の鎮圧、普請工事の出費などが重なりさらなる財政難を招きました。9代前田利幹も財政再建に積極的で新田開発や商品作物の奨励、銭札発行などを行いましたが百姓一揆を招く事態となりました。10代前田利保も陶器製造業、薬草栽培などの国産化を奨励し、自らも「本草通串」、「本草徴解」、「本草通串澄図」、「万香園裡花壇綱目」を著し博物大名の異名がありました。しかし、利保が隠居すると側室だった毎木が台頭し11代利友と12代利聲は傀儡化、利保は加賀藩主前田斉泰の助けを借り毎木を蟄居、腹心である富田兵部を切腹、利聲を強制隠居させ、養子として斉泰の11男前田利同を13代藩主として迎え事態の収拾に努めました。

長岡御廟は歴代富山藩主前田家の墓所で、元々は初代利次が居城となる百塚城を築きたかった場所とされ、財政難などの理由から無念にも計画を断念した事から、遺骸がこの地に埋葬されました。歴代藩主や、前田家一族は先代に習い長岡御廟に埋葬されるのが常となり、亡くなる毎に家臣達が石灯籠を寄進した為、往時は500基を越える夥しい石灯籠があったとされます。又、長岡御廟は江戸時代は仏式でしたが明治時代初頭に発令された神仏分離令後は神式となり境内には巨大な鳥居が設けられています。

長岡御廟:写真
前田家と縁がある長岡御廟 前田家と縁がある長岡御廟 前田家と縁がある長岡御廟 前田家と縁がある長岡御廟
富山城:写真
前田家と縁がある富山城 前田家と縁がある富山城 前田家と縁がある富山城 前田家と縁がある富山城



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