塩硝街道(金沢〜湯涌〜西赤尾)

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五箇山街道
【五箇山街道】−五箇山街道(煙硝街道)は所謂一般的な街道ではなく、加賀藩が管理したものの幕府の届出を行わず地図にも載っていませんでした。これは、五箇山の各集落は鉄砲や大砲などで利用する火薬の原料である煙硝の生産を担い、この行為を幕府に知られる事を避ける為だったとされます。加賀藩の藩祖だった前田利家は豊臣秀吉の盟友として秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼の後見役を担い、天下を豊臣家から掠め取ろうと画策した徳川家康と対立、利家が死去すると利長が跡を継ぎましたが、家康から謀反の疑いをかけられ軍勢を差し向けられる寸前までいきましたが、利長はここで豊臣家を見限り徳川家に転じます。さらに利長は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川方に見方して加賀藩120万石(後に100万石)の基礎を築き、縁組を進めるなど準一族扱いを受けるようになります。一方で、五箇山での煙硝生産を秘匿とし、煙硝の「煙」の字を「塩」で書き換えて表現するなど徹底されました。

五箇山での煙硝の歴史は戦国時代に上り、越中、越前で一向一揆が頻発する中、織田信長は一揆弾圧と共に、総本山である石山本願寺との対立を深めました。五箇山一帯は浄土真宗が盛で周囲が山に囲われ隔絶され、寒冷、多雪、適湿などの気候の特徴も煙硝には適地だった事などから、本願寺は塩硝技術者を派遣して密かに煙硝を生産させ、一揆衆に分配させたとされます。その後、前田家が領主になるとその生産体制が引き継がれ、質、量共に日本有数の硝煙の生産地として発展し幕末には年間37トンに達しました。

街道の経路は幾つか存在しますが、一番主要なものは加賀藩の藩庁が置かれた金沢城の城下町を基点として湯涌温泉→横谷峠(標高:525m)→越戸峠(標高:約750m)→西赤尾→五箇山(菅沼集落・相倉集落など)に至るもので、湯涌温泉付近には万治元年(1658)に土清水塩硝蔵(加賀藩土清水製薬所)が設けられ、ここで五箇山産塩硝と立山地獄谷産硫黄と地元産木炭が調合され火薬に生産しました。土清水塩硝蔵は敷地が約11万uに及び中枢部には幅約3.5m、深さ約2.5mの堀で囲われ厳重に管理されていた事がわかっています。

【相倉集落】相倉集落富山県南砺市)は所謂「合掌造り」の古民家で形成されている集落で、現在も20数棟が現存し、往時の五箇山の農山村集落の形態を非常に色濃く残されています。基本的に合掌造りの建物は厳しい自然環境に適しているだけでなく上層部では養蚕、下層部は煙硝が生産出来るように工夫され、さらに地域独特の大家族制度にも対応し、多層構造となっています。相倉集落には、念仏道場(相念寺)や地主神社、石仏、石碑などの宗教施設も良好に残され国の重要伝統的建造物群保存地区や国指定史跡、ユネスコの世界遺産にも登録されています。

【菅沼集落】菅沼集落(富山県南砺市)は相倉集落と同様に茅葺合掌造集落(国の重要伝統的建造物群保存地区・国指定史跡・ユネスコの世界遺産)で、やはり、煙硝生産が盛んだった事から現存する合掌造りの古民家の1棟が「塩硝の館」として一般公開されています。

【西赤尾集落】−西赤尾集落(富山県南砺市)も煙硝生産が盛んだった集落で、現在残されている岩瀬家住宅は江戸時代中期に加賀藩の塩硝上煮役である藤井長右エ門によって建てられたもので、五箇山最大の合掌造り建築の遺構として貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。隣地には室町時代の永正10年(1513)に蓮如上人の高弟・赤尾道宗が創建した浄土真宗の古刹、行徳寺が境内を構え18世紀に建てられた茅葺の鐘楼門と、江戸時代末期に建てられた、合掌造り、茅葺の庫裏が南砺市指定文化財に指定されています。

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