阿尾城(氷見市)概要: 阿尾城の築城年は不詳ですが戦国時代の永禄年間(1558〜1570年)には菊池武勝が城主になっていた事が知られています(菊池氏が入るまでは、資料が無いものの荘園領主である八代(屋代)氏が利用していたと思われます)。上杉謙信の越中侵攻により菊池氏は従いましたが天正6年(1578)に謙信が死去すると越後に跡目を巡る内乱(御館の乱:上杉景勝と上杉影虎との対立)が勃発し、織田信長が越中に侵攻、すると今度は信長に従い天正8年(1580)には領地の安堵状を賜っています。
その後は信長の家臣で富山城の城主となった佐々成政に従いましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去すると羽柴秀吉に従った前田利家と佐々成政が対立、菊池氏は前田家に内通することで難局を切り抜け、阿尾城には利家の義理の甥である前田慶次が城代として入城しています。
天正13年(1585)、成政は守山城の神保氏に命じて阿尾城を攻めさせ、5千の兵が城を取り囲み、守る兵は慶次以下2千で佐々軍有利に展開します。
村井長頼の救援により形成は逆転し、佐々軍は自領に引き上げ阿尾城を堅守しています。
阿尾城は江戸時代に入り一国一城令により廃城となり荒廃しましたが菊池氏は前田家に組み込まれ家臣として1500石を安堵されています。
阿尾城には縄張り図などが存在しない事から郭の名称は不詳ですが、形状から伝本丸、伝二の丸、伝三の丸と西側の郭(榊葉乎布神社)の4つの郭があり、土塁や空堀の遺構が僅かに見られる事から往時は四周にそれらが配されていた事が窺えます。特に伝本丸に至る道筋は人が1人通れる位の尾根道で攻めるにはかなりの堅城だったと思われます。
又、阿尾城は三方を断崖絶壁で海に囲まれた姿は景勝地として知られ安藤広重の「諸国六十八景」や旭江の「北陸奇勝」などに画かれ、俳人路青は「 草と木と いづれかあほの 秋ちかし 」の句を残しています。現在は榊葉乎布神社と白峯神社の境内や展望台、神輿舎資料館、東屋などが建てられ主要な遺構は失われています。阿尾城は昭和40年(1965)に富山県指定史跡に指定されています。
阿尾城:上空画像
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