万葉寺井の跡(高岡市伏木)概要: 万葉集 巻19−4143に記載されている「物部の 八十少女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花」は題材「堅香子草の花を攀じ折る歌」として天平勝宝2年(750)3月、大伴家持によって詠まれた歌です。大伴家持は奈良時代の貴族だった人物で武人の家系でありながら文才に優れ万葉集の編纂などに係わり、小倉百人一首にも名を連ねています。天平18年(746)から天平勝宝3年(751)まで越中国の国守として当地に赴任し、中央の煩わしい権力争いから離れ自由に才能を開花させ期間中に223首の歌が詠まれています。「物部の 八十少女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花」の一般的な解釈は「寺の井戸の廻りに咲き誇る堅香子の花は、沢山の少女が水を汲んでいるようで可憐なことだなぁー」といった意味で、この寺の井戸が当地だったと推定されています。
近年まで古い湧水の井戸が残り、この辺り周辺を「清水(じょうず)」と呼ばれていたそうで、近くには国分寺跡と推定される薬師堂や勝興寺もあります(ただし、どちらの寺院も少女達が嬉々として水を汲むような感じではありませんが・・)。又、物部=官僚=数が多い、との意味から、同じく、八十=数が多い、にかかる枕詞になっていて、「物部の 八十少女らが」とは「沢山の少女達が」と訳されるそうです。堅香子(かたかご)は一般的にカタクリと訳されますが、カタクリは高さが10cm程しか成長しなく、「寺井の上の=寺の井戸の上」ある事は考えられない事から堅香子(カタカシ)=堅樫の樹、説もあります。ただし、歌全体の読みとれる情感からはカタクリの花と訳した方が当然無理はありません。
万葉寺井の跡:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-高岡市教育員会・伏木ライオンズクラブ・伏木文化会
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