朝日町: 宮崎太郎長康公供養塔(宮崎城)

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概要・歴史・観光・見所
宮崎太郎長康公供養塔(宮崎城)概要: 案内板によると「 宮崎太郎長康は平安末期における越中東部の豪族で、木曽義仲に属し宮崎の地に館を築いていた。寿永3年(1184)1月義仲の勢力圏であった信州に入り、伊那の黒田村を押領して宮崎城を構えた。長門本源平盛衰記によれば倶利伽羅の合戦で平氏攻略の計画を立てたのは宮崎氏とあるが、この長康公のことである。」とあります。

宮崎家の祖は中臣鎌足(後の藤原鎌足)とも云われ、鎌足の次男である藤原不比等の後裔、藤原利仁が北陸地方を治めるようになり、3男井口三郎光義が越中国を与えられ砺波郷を本拠としました。井口蔵人の代に佐味郷に本拠を移し、その後裔の一族である井口光範が宮崎姓を名乗ったとされ、宮崎太郎長康(推定:長承元年:1132年〜建久6年:1195年)により宮崎城が築かれています。

長康は治承5年(1181)に木曽義仲が越後国の守護的存在の城助職を破ってから従ったとされ、寿永元年(1182)には後白河法皇の孫で以仁王の第一皇子である北陸宮が乳母夫讃岐前司藤原重秀の誘いにより、同じ藤原氏との繋がりがある長康を頼って宮崎の地に下向しています。

その知らせを聞いた木曽義仲は寿永2年(1183)に宮崎城に赴き北陸宮に謁見し、長康に命じて城下に諏訪神社とその神宮寺を創建させています。寿永3年(1184)に木曽義仲が源頼朝から追討を受け討死すると、北陸宮も京嵯峨野衣に隠居になり、後ろ盾を失った宮崎家は没落しました。宮崎太郎長康公供養塔は宮崎城の城跡に建立されています。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

宮崎太郎長康公供養塔:写真

宮崎太郎長康公供養塔
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