北陸宮御墳墓(宮崎城)概要: 平治元年(1159)、平治の乱の終結後、後白河院は平将門の協力を得て朝廷内を掌握しますが、蜜月は短く平家の台頭と共に次第に対立し、平家が高倉天皇を擁立した事で院政が弱体化、さらに治承3年(1179)、清盛が兵を率いて京都に侵攻し朝廷を制圧すると院政は廃止となり後白河院も幽閉されます(治承三年の政変)。後白河院の第三皇子以仁王はこれに大きく反発し治承4年(1180)には全国に平家打倒の令旨を発しました。以仁王も源頼政の協力を得て挙兵しますが宇治川で敗死したとされます(実際、以仁王の顔を知る人が少なく、東北地方では以仁王生存説を窺わせる伝説が伝わっています)。
北陸宮は以仁王の第一皇子で父王の挙兵に伴い出家し身を隠していましたが、危機が迫った為、寿永元年(1182)に讃岐前司重季に導かれ、ひとまず宮崎太郎長康が守る宮崎城に入りました。長康は木曽義仲に通じていた事から、義仲の旗頭として擁立され復権を試みましたが後鳥羽天皇との政争に敗れ、さらに寿永3年(1184)に義仲が粟津の戦いで敗れ討ち死にすると庇護者を失い失権し、その後は京都の嵯峨で静かに余生を過したそうです。当墳墓は昭和45年(1970)に京都南禅寺の北陸宮墓地から御分骨し、縁の深い当地(宮崎城三の丸跡)に奉築したもので地方に中世の皇族の墳墓のあるのは、全国的に見ても数少ないそうです。
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